「アイヌ」の危険
北海道は、「和人」も含めて、昔から様々な民が
様々な場所から流入し、
混交し、また、北海道から逆に出ていくこともありました。
それぞれ独自の文化・習慣・言語・歴史・アイデンティティー
を持った「決して一つに括れない」集団を
「一つに括れないという事を前提に、あくまで便宜的に呼ぶ語」
それが「アイヌ」です。
それを、具体的な民族名、集団名として認識すると
おかしなことになってしまいます。
たとえば、白人から見れば中国も日本も似たようなものに見えてしまい
「アジア民族でいいじゃん」のように片付けられてしまう場合も
あるかもしれません。
しかしそれはもちろん、白人の側の素朴な無知に過ぎない問題です。
「アジア」について良く知っている人ほど
「アジア民族」などというものが存在しないことはわかります。
もし「これが私たちアジア民族の文化です♪」とか言いながら
チョンマゲを結って、ガムランに合わせて太極拳をしている・・・・・
・・・そんな人がいたらどうでしょう?
そんな「自称アジア民族」などは存在したこともない
アイデンティティー不明の胡散臭い存在であることは明らかです。
また、仮に全く正統な形で習得された「能」を正確に舞って見せたとしても
それを「アジア民族の踊りです」と表現することはありません。
「アジアの踊りです」と表現するのも、広すぎて説明になっておらず無意味です。
つまり、「アイヌ(民族)の踊り」などと称するものをやってみせ
「ほらみて!私はアイヌ(民族)なのよ!」とアピールしているような人たちも
実は、相当におかしな存在であるといえるのです。
「アイヌ」という語を見かけたら、必ず
「いわゆる」をつけて「いわゆるアイヌ」と呼ぶか
「北海道諸部族」と読み替えてみると良いでしょう。
それで破綻した表現になっていないかどうかを確認すると
何が間違いで何が正しいのか、わかりやすくなるはずです。
アイヌについて知るという事は
「アイヌ」という語の持つ危うい性質を理解するという事でもあるのです。
様々な場所から流入し、
混交し、また、北海道から逆に出ていくこともありました。
それぞれ独自の文化・習慣・言語・歴史・アイデンティティー
を持った「決して一つに括れない」集団を
「一つに括れないという事を前提に、あくまで便宜的に呼ぶ語」
それが「アイヌ」です。
それを、具体的な民族名、集団名として認識すると
おかしなことになってしまいます。
たとえば、白人から見れば中国も日本も似たようなものに見えてしまい
「アジア民族でいいじゃん」のように片付けられてしまう場合も
あるかもしれません。
しかしそれはもちろん、白人の側の素朴な無知に過ぎない問題です。
「アジア」について良く知っている人ほど
「アジア民族」などというものが存在しないことはわかります。
もし「これが私たちアジア民族の文化です♪」とか言いながら
チョンマゲを結って、ガムランに合わせて太極拳をしている・・・・・
・・・そんな人がいたらどうでしょう?
そんな「自称アジア民族」などは存在したこともない
アイデンティティー不明の胡散臭い存在であることは明らかです。
また、仮に全く正統な形で習得された「能」を正確に舞って見せたとしても
それを「アジア民族の踊りです」と表現することはありません。
「アジアの踊りです」と表現するのも、広すぎて説明になっておらず無意味です。
つまり、「アイヌ(民族)の踊り」などと称するものをやってみせ
「ほらみて!私はアイヌ(民族)なのよ!」とアピールしているような人たちも
実は、相当におかしな存在であるといえるのです。
「アイヌ」という語を見かけたら、必ず
「いわゆる」をつけて「いわゆるアイヌ」と呼ぶか
「北海道諸部族」と読み替えてみると良いでしょう。
それで破綻した表現になっていないかどうかを確認すると
何が間違いで何が正しいのか、わかりやすくなるはずです。
アイヌについて知るという事は
「アイヌ」という語の持つ危うい性質を理解するという事でもあるのです。